今日は土日にあった、祭の事について書きます。
本当は今までみたいに、その出来事があった日に書きたかったのですが、撮った画像の数が多過ぎる事もあって、かなり時間が掛かり遅くなってしまうので、仕方なく終わった後に書く事にしました。


町内をグルグルと回る東栄車です。
祢里小屋へ帰った後、記念写真を撮りました。





八幡神社に集まる祢里達です。
ここから、馬場車→天王車→東栄車→時和車→新栄車という順番で、各祢里小屋へ行きます。








各祢里小屋へ行く祢里達です。
毎年思う事ですが、時和車の祢里小屋ではみ組もいる事もあって、一番盛り上がります。
また浅栄社が時和車の祢里小屋から出て行く時、馬鹿囃子(ばかばやし)でひょっとこをやっていたのですが、今までと違ってやけに上手い人がやっていました。夜あ組とと組と合流する時も、上手い人がいたのですが、多分同一人物ではないかと思います。





祭典本部に集まり、三社祭礼囃子を披露する祢里達です(お囃子と鴉天狗とひょっとこの一部は浅栄社で、殆どのひょっとこは馬場車・天王車・東栄車・時和車・新栄車のメンバーが担当しました)。
実はこの時、ここいらへんのお祭りの管理人さんと初めて会いました!!
馬場車に参加している事は知っていたのですが、一体どんな人なんだろう?と気になっていましたので、会えて本当に嬉しかったです!!
この時管理人さんが、大変興味深い話を教えてくれました。
この芝八幡神社祭典は、本家に拘る者と今の浅羽なりのやり方で良いという考えで別れている事、あ組1号は昔二見ヶ浦と出し人形と決まっていた事、2号車の出し人形が二見ヶ浦なのは、昔の名残である事という事です。
前者については何となくそうじゃないかなと感じていましたが、あ組の事については初めて知りました。てっきり二見ヶ浦なのは、2号車が元は西新町のお古の流用だから、本家を意識してわざとそうしたと思っていたのですが、全然違っていたのね。
しかしあ組1号が、何故毎年出し人形を変えるようになってしまったのかは、残念ながら彼にも分かりませんでした。
「あ組1号も決まった出し人形があれば良いのに。そうすれば本家に近くなるし、出し見ただけで何処だか分かるのに。毎年違うなんて、それじゃ森町や袋井と同じではないか」と、色々おっしゃっていました。
僕もあ組1号には決まった出し人形が出来てほしいという気持ちもありますが、その一方で今年の出し人形は何だろう?という楽しみもなくなりますし、ちょっと複雑な気持ちですね…。
実はその管理人さんとは、その日の夜と日曜日の夜とも会い、しかもその日の夜にもまた面白い話を教えてくれたのですが、それはまた後で書きます。




休憩している、浅栄社とみ組です。
ここから浅名へ行き、あ組とと組と合流します。




あ組とと組です。
本当は浅栄社とみ組と合流するのですが、時間の関係もあるせいか浅栄社達が中々来なくて、ゆっくり移動していました。
またあ組についてですが、1号車と2号車で大太鼓が逆になっていた気がしました。
去年では1号車が少し低めで、2号車がちょっと高めだった気がしたのですが…。




去年と同じように、消防署の近くにある広い駐車場で盛り上がる祢里達です。
千秋楽並みのテンションの高さで、見ていて大変気持ち良かったです。




駐車場を後にする祢里達です。
この時何故かあ組1号の明かりがやたら消えたりしており、それに対する不安があったせいか、今までのようなイキイキした感じはありませんでした。







馬場車・天王車・東栄車・時和車・新栄車と合流する、浅栄社です。
ここいらへんのお祭りの管理人さん曰く、前夜祭の時と同じく本当は一緒に行動する予定はなかったんだけど、みんなで一緒に楽しみたいという理由で、こうやって集まったそうです(浅栄社が中々来なかった場合、なしにする予定だったそうだが)。
そうそう、先程書いたようにその管理人さんが、また面白い話を教えてくれたのですが、磐田の府八幡宮大祭は、元は二輪屋台だったけど、新しい物好きという事もあって、色んな要素を取り入れた結果、今現在の姿になったそうです。
特に二輪屋台の物は、何と本家である一本柱万度型の物を改造して作ったらしいです。
袋井や森町のような御所車型とは、何だか違うなと前から思っていたのですが、そうだったのですか…。
またここのお祭りは、やたら鐘を鳴らす事がありますが、あれは子供を呼ぶ為の物だそうです。
以前は「出発するよ」と声をかけていたのですが、全然来なかった為そうするようになったらしいです。
ここいらへんのお祭りの管理人さん、本当に色々とありがとうございました!!
また何処かでお会いしましょう!!




無事帰って来た東栄車です。
次回が、いよいよ最終日です。